海道東征

趣意書

柳川市民文化会館開館記念公演

交声曲「海道東征」合唱組曲「筑後川」 演奏会 開催募金趣意書  

白秋の生れた町柳川では、音楽祭が開かれる都度、必ずと言っていいほど白秋の最晩年、望郷の歌「帰去来」が歌われます。

この「帰去来」は、北原白秋没後の昭和23年(1948)、白秋詩碑に刻まれると同時に、作曲を信時潔氏に依頼されました。爾来、70年間歌い継がれています。

  帰去来(ききょらい)

山門(やまと)は我が(わが)産土(うぶすな)、

雲騰(くもあが)る南風(はえ)のまほら

飛(と)ばまし、今一度(いまひとたび)。

筑紫(つくし)よ、かく呼(よ)ばへば

恋(こ)ほしよ潮(しお)の落差(らくさ)、

火照り(ほて)沁(しい)む夕日(ゆうひ)の潟(がた)。(ひ)

盲(し)ふるに、早(はや)もこの眼(め)、

見(み)ざらむ、また葦かび(あし)、

籠飼(ろうげ)や水(みず)かげろふ。

帰(かへ)らなむ、いざ、鵲(かささぎ)、

かの空(そら)や櫨(はじ)のたむろ、

待(ま)つらむぞ今一度(いまひとたび)。

故郷(ふるさと)やそのかの子(こ)ら、

皆(みな)老いて(お)遠(とお)きに、

何(なん)ぞ寄る(よ)童(わらべ)ごころ。

この詩の「飛ばまし、今一度」には、訳があります。

昭和⒖年(1940)の皇紀二千六百年奉祝芸能祭に向け、日本文化中央連盟より北原白秋に委嘱があり、特別に作成した詩編のひとつです。作曲に於いては当代稀にみる芸術良心の持ち主であり、高邁廉潔の信時潔氏を得た、と。こうして壮絶な詩作が始まりました。

「神武紀の勅語、ご遺徳を通じ肇國の蒼古より橿の宮に及び、之に宏遠なる大海洋思想を配し、かの黒潮とともに発展してやまぬ大和民族の進取性をも歌いあげようとした」と、白秋は記しています。

眼病を患い、読書もままならない中、古事記、日本書紀、祝詞、風土記、宣命などの資料を探し出し、家族に一字づつ習字帳大に書き写してもらい、口述しながら、見えないゆえに記憶の中で推敲する作業を繰り返してきた。じりじりする中、癇癪も抑え、詩興を損なわないように努め、白秋平生の主調である、万葉以前の声調を極度まで昂揚しようとした。すなわち、古典調の連鎖で荘重体、蒼古調、荘厳相である。

こうして完成した「海道東征」の初演は、同年⒒月⒛日東京音楽学校に於いて同校公式の奉祝楽典として五百名の大合唱によって満堂を魅了した。

また、翌週26日、日比谷公会堂にて皇室の方々ご臨席のもと、日本文化中央連盟主催の奉祝芸能祭の一つとして公開演奏された。

そうして、昭和⒗年(1941)3月交声曲「海道東征」の作詞者、北原白秋に福岡日日新聞社の文化賞が贈られることとなり、授賞式に家族とともに西下、福岡を経て故郷柳川をはじめ、二十日間の日向、高千穂などの海道東征ゆかりの地をすでに、ほとんど視えない中、旅をされました。

その時、読まれたのが、冒頭の「帰去来」です。

昭和⒘年(1942)⒒月2日に亡くなられた白秋は、信時潔作曲の「帰去来」を聞くことは叶いませんでした。

この名曲、交声曲「海道東征」はオーケストラ、大合唱団の編成ではまだ白秋の故郷柳川では、全曲の演奏はされていません。

柳川市民文化会館が2020年度新築落成致します。そこで、2021年早春に、 この幻の名曲を地元柳川で歌い続けていく契機にしたいと願っています。

指揮を合唱組曲「筑後川」や「筑紫賛歌」で何度も演奏されている、現田茂夫先生にお願いし、オーケストラは九州交響楽団を予定しています。

募金目標 五百万円也    一口二千円より 

連絡先   柳川海道東征演奏会実行委員会

     (公財)北原白秋生家記念財団内 〒832-0065  柳川市沖端町55-1